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呪い・祟り

志那羽岩子さんによる呪い・祟りにまつわる怖い話の投稿です

よく回る
短編 2026/02/18 21:03 124view

深い霧に包まれた沿岸の町では、そのガレージを「潮鳴りの檻」と呼ぶ者がいる。

誰が最初にそう呼んだのかは知られていない。ただ、潮が満ちる刻限になると、焼けた油と鉄の匂いが町の奥まで流れ込み、鼻の奥にこびりつく。その匂いを覚えた者は、二度と忘れない。

その一族には、なぜか長く女が生まれなかったという。男たちだけが育ち、男たちだけが溶接機を握り、男たちだけが夜通し火花を散らす。かつては造船で名を上げたが、今は広いドックも半分が錆び、波止場には使われない船台が並ぶ。

現当主は若い。だが、その目は古びた鋼材のように濁っている。

ある年の冬、当主は町外れの廃駅に立つ老婆を訪ねた。信号の灯はとっくに消え、レールは途中で土に呑まれている。老婆はそこに座り続け、「カミシバ」とだけ呼ばれていた。

老婆は顔を上げずに言った。

「潮の満ちる刻限。油に汚れた異邦人。引き入れなさい」

それだけだった。

その夜、港の酒場にひとりの整備士が現れた。名をリュウという。流れ者だと自称し、どこの工場も長く続かなかったと笑っていた。

リュウは噂を知っていた。あのガレージで働いた者は、指が動かなくなるという。神経が死ぬのだと。

だが彼は肩をすくめただけだった。

「俺の指は安物だ。壊れても惜しくない」

契約の場で、彼は工具箱を床に叩きつけた。油が跳ね、黒い染みが広がる。背後に並ぶ一族の男たちは、誰も咎めなかった。ただ、リュウの指先を見ていた。

ささくれ立ち、何度も火傷を重ねた指を。

「……馴染む」

誰が言ったのかは分からない。だが、その言葉で雇用は決まった。

働き始めてから、リュウは眠らなくなった。眠れなくなったのか、眠る必要がなくなったのかは曖昧だった。深夜になると、工具が自然に手の中へ収まる。回路の接続、溶接の角度、火花の散らし方。習った覚えのない手順が、指の内側から湧き上がる。

キィィ、キィィ。

隔壁の向こうで何かが鳴る。

鋼か、骨か。判別はつかない。

振り返ると、暗がりに男たちが立っている。リュウが削り落とした鉄屑を、掌で撫でている。その仕草は祈りにも似ていた。

数年が過ぎた。

工場は息を吹き返したと言われる。船の修理依頼が増え、火花は昼夜を問わず散る。

同じ頃、一族に新しい命が宿った。

嵐の夜だった。工場全体が低く震える。溶接機は止めているはずなのに、配線がかすかに熱を帯びる。

やがて、産声が上がった。

高く、硬い音だった。金属板を打ち抜くような響き。

リュウは奥の部屋へ呼ばれた。

毛布に包まれた赤子は静かだった。目を開けている。黒い瞳が、溶接の火花を反射する。

近づいた瞬間、リュウは違和感を覚えた。

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