昨夜の出来事を二人は口にも出さない。実害はなかったし、あれもツアーの一興だったのだろうか。もうあの声はしない。だが、あのすえた臭いは消えていない。不思議に思った時。
「愛さん、起きられましたか。お食事をお運びしますね。」
井伊さんが朝食を運んできてくれた。旅館らしい、ご飯のお供がたくさんある。海苔、温泉卵に鯵の開き。そして。
「たくあん?」
「ええ。古漬けなので少し臭いがきついですが、害はございませんよ。ちなみに恐ろしい夜は開けたので、本日は女将の話を聞いて、お寺に行っていただければ。」
すえた臭いはこれが元だったのか?まあ、あまり気にしても仕方がない。美味しいご飯を食べているうちに、昨夜の出来事は意識しなくなっていた。
「よう来たの。ひっで悪戯にやられてたの。怒っとるかね?」
昨日も通してもらった仏間で、美味しい茶とお茶菓子をいただきながら女将さんはにこやかに口を開いた。
「いえいえ!楽しい一日でしたよ。『呪い』は全部舞が受けてくれましたし。」
「あはは…。でも、私も皆と笑えて楽しかったです。」
「ほうかほうか。仲が良くて良いの。ほんなら、怖い話を聞かせようかの。」
「お願いします。」
「皆血判状は見つけたんやがの。」
「ええ。これですよね。」
「ほや。これは私らが作ったレプリカやけど、参考にした本物があるんや。何百年も前、この辺りは一向一揆って言って●●●宗を信じる農民らが幕府やら、戦国大名やらと戦ってたんや。初めは調子も良くて、凄いところでは百年間、幕府も手が及ばんような場所もあった。でも段々と劣勢になってきて、上杉軍やら、織田軍やら…、皆も学校で習うような有名な大名がようけ攻めてきた。酷いところでは川が血で染まるほどの負け戦も。散々手を焼かされた一向衆に容赦は無い。女、子供も皆殺されつんた。」
「ほんで、この血判状は一揆をする前に仲間うちで書いたもんや。血と墨を混ぜて自分らの決意を誓うために自分の名前を書き合う。このぐるりと円になってるのは、傘連判状っていっての。首謀者が誰か分からんくしたり、自分らは皆同じ立場の同士やって示すためにこういう円形にしたって言われとる。」
「ここに名前を書いた人らは大名からしたら、皆首謀者やさけ、負けた時は惨い目にあった。磔にされた人らもおるらしい。そんな目にあった人らが自分らの手斬るほど、想いを込めてたのが、この血判状。充分人を『呪う』に足るわな。」
「なるほど…。」
「ほんで、これをお寺さんのとこでちゃんと供養してもらうのが今日の皆への『みっしょん』やな。もちろん、皆は恨まれるようなことはしとらんさけ、もし本物を持っててもそんな大事にはならんと思うけど。せいぜい、枕元に出るくらいやろ。」
そういって女将さんは笑った。
お寺での供養は簡単なものだった。宿から話がいっているのであろう。お坊さんは私たちを見るとすぐ本堂に通し、女将さん同様一向一揆の話を聞かせてくれた後に念仏を唱えてくれたり、血判状を焼き上げてくれたりした。お寺の貯蔵物も色々と見せてくれ、一向一揆で使われた旗なんかもあった。お坊さんは旗に書かれている文字は、「達者 往生極楽 退者 無間地獄」と教えてくれた。戦って死ねば極楽に行ける。退いて逃げれば地獄行き。自分たちを鼓舞するための合言葉的なものだったそうだ。
8月4日。山道を運転し、新幹線に乗って東京に帰る。井伊さんが色々と持たせてくれたお土産にはあのたくあんも入っていて、すえた臭いが少しだけする。
蔵から何か持ってきてしまったらしい舞は、女将さんにお礼と謝罪の手紙を書いている途中で眠ってしまった。
美衣も疲れて眠っている。
私も、普段なら一緒に寝ているのだろう。
眠れない私は惨たらしい一向衆の最期を想像する。
武器である鍬や鋤、鎌は刃こぼれも、錆もひどくて、それでいて血でぬらぬらと濡れている。
白米を食べる機会も少なかったのだろう。皆、痩せている。それでいて支配者層への恨みで目はギラギラと光っていて、皆で声をそろえて敵に向かっていく。
対する敵は戰慣れしている上に、装備も全く違う。一人、また一人と無惨に討ち取られていく…。最期まで「達者 往生極楽 退者 無間地獄」と唱えながら。
ああ、眠ってしまいたい。
舞の目の前にいる、あれさえ目にはいらなければ。

























※コメントは承認制のため反映まで時間がかかる場合があります。