誘い
投稿者:砂の唄 (11)
私の友人が語ってくれた話です。友人の名前をAとします。Aはある時一人旅に出かけ、大きな歓楽街に立ち寄りました。すぐ近くのホテルに泊まっていたのでAは気が緩み色々な店でお酒を飲み、最終的にかなり酔った状態になってしまっていました。さすがに飲み過ぎたと思ったAはホテルに帰ろうと店を出ました。時刻は深夜1時くらいだったそうです。
歓楽街につきものなのが客引きです。居酒屋、キャバクラ、風俗店などそれぞれの店の従業員があの手この手で声をかけてきます。Aも当然色々な客引きに呼び止められましたが、それを振り切りホテルへ歩いていました。
その道中Aは赤い服を着た若い女性から声をかけられました。何の店だったかは思い出せないようでしたが、その女性も客引きでAに声をかけてきたようでした。Aはもちろん無視するつもりだったのですが、その女性に話しかけられ話を聞いていると、なぜかその女性について行こうという気持ちになったそうです。しばらく話をしてAはその女性の店へと行くことを決めました。その女性に手を引かれながら後ろをついていき、大通りから路地の方に入っていきました。
その路地にはスナックや居酒屋などがぽつぽつあるだけで華やかな表通りより、薄暗くより怪しい印象を受ける場所でした。女性は古びた雑居ビルの前で立ち止まり、中へ入り左手に進み、廊下を進んだ奥にある階段の方へとAを連れて行きました。ビルの中は電灯が薄暗く、廊下を通るときに見た2、3の店は看板に営業中とありましたが、人の気配はありませんでした。
女性は階段を上っていきAもそれに続きました。「お店って何階にあるの?」Aが聞くと「ビルの一番上の階にあるの」女性はAの方を振り返らずそう答えました。階段はかなり薄暗く、階数の表示灯くらいしかまともな光源がなかったようです。しばらく階段を上っていましたが、酔っぱらっていたAは足どりが遅く次第に女性と距離が離れてしまっていました。それでも最上階というのは頭にあったので「先に行って待っててねー」と上の階に向かって叫びゆっくりと階段を上りました。
大分階段を上り、5階までAはたどり着きました。まだ階段は続いていたので上へ行こうとすると、階段から続く廊下の方から声をかけられました。廊下にはほぼ明かりがなかったので、顔はよくわかりませんでしたが、声をかけてきたのはグレーのスーツを着た男性でした。声の感じから50代くらいだったかなとAは記憶しています。「ここは従業員用の階段ですよ。どこへ行かれるんですか?」それを聞いたAは酔っていたこともあり「おねえちゃんの店に行くんだよ。文句あるか?」と荒々しく答えました。
表情はわかりませんでしたが、男性はAの方へ歩き出しさっきとは全く違う強い口調で言いました。「今すぐ階段から降りてください。いいですか、この上は屋上です。店なんかありません。すぐこのビルからも出たほうがいい。廊下の奥にエレベーターがありますからそれで一階まで降りましょう。もうこの階は営業が終わっているので薄暗いですが、私が案内しますのでさぁこちらへ」男性はAの方へ手を伸ばしながらさらに近づいてきました。
頭がうまく働かないAはいまいち状況がつかめていなかったのですが、何となくここから出たほうがいいというのは分かったそうです。Aは男性が来る前に反転して今来た階段を再び下っていきました。後ろで男性が何か言っていましたが、Aは早く出ないと、という考えで頭がいっぱいになっていて聞こえていませんでした。そのままビルを出て、たまたま通りかかったタクシーを捕まえてホテルへと戻りました。
次の日Aは昼頃に目を覚ましました。そこは自分がチェックインしたホテルの部屋でよく覚えてはいませんでしたがAは無事に帰ることができたのでした。そのホテルには連泊することになっていたので昼に起きても問題はなかったのですが、その日は電車で他の観光地に行くことにしていました。今出かけると帰りが遅くなるので、Aは仕方なくその日はホテルの周辺をぶらぶらすることにしました。
Aはふと昨日の奇妙な体験を思い出しました。酔っぱらっていてもあのビルでのことはよく覚えていました。Aはせっかくなのでもう一度あそこに行って昨日何があったのかを確かめようと再び繁華街の方へと向かいました。記憶を頼りにあのビルのあった路地までやってきて、奥へと進むとそこには昨日のビルがありました。
Aはまず外からこのビルが何階建てかを確認しました。1、2…と数えるとそのビルは6階建てでした。あれ?と思いましたが、Aはビルの中へと入っていきました。昨日は気づきませんでしたが、入り口付近にはそのビルに入っている店の一覧のような看板がありました。それを見ると1階、2階には何件か店があるようでしたが、3階より上には店名を表示するスペースはありましたが、一軒も店はありませんでした。
ビルに入り右手を見てみると一台だけエレベーターがあるようでした。近寄ってみるとエレベーターには汚い手書きの張り紙があり「故障中 現在使用できません」と書いてありました。再びAはあれ?と思いましたが、昨日と同じ階段を上り5階へと向かいました。
5階に到着して、そのまま6階へと階段を上っていきました。当然そこには6階があったのですか、階段から続く廊下には机やらソファーやらがまるでバリケードを築くように山積みになっていてそこから進むことができないようになっていました。どかして先に進めそうではありましたがAは引き返しました。行かない方がいいということを直感したのだそうです。Aはこの光景を何かを封印しているようだったと感じたそうです。
Aは5階に降りて今度は5階を探索しました。廊下から奥の方を見ましたが、廊下には椅子やら段ボールなんかが無造作に放置されていて、ドアなんかも半開きになっていて廃墟みたいな状態でした。Aはそのまま奥に進んでいき、突き当りにエレベーターがあるのを見つけました。そのエレベーターは扉が開きっぱなしになっていたのですが、そこにあるべきエレベーターはありませんでした。真っ暗の空間があるだけで、あとはケーブルのようなものが数本垂れていました。Aはしばらく遠目からそこを見ていたのですが、急に暗闇がこちらを見ているような感覚に襲われ、すぐさま引き返しビルから出ていきました。
Aは予定を切り上げてそのまま帰ることにしました。それからAは歓楽街のようなところには行かなくなりました。Aいわく「ああいうところにはやっぱり悪いものが集まるんだろうな。それで、そいつらはあの手この手で俺たちを引きずり込もうとしてるんだよ。気を付けないとな。あぁ本当に気を付けないと」
どんな店だと言われたかも、顔も、声の感じも思い出せないAを誘った赤い服の女性ですが、Aは彼女の言葉だけは覚えているそうです。「ねぇ、いいところに行きましょう。何にも心配しないで大丈夫よ。お兄さんは特別。だからこうして声をかけて誘ってあげているのよ」
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