確かに、隣は無人だった。草が膝の高さまで伸び、瓦が数枚、庭に落ちたままになっている。周囲の家とは明らかに違う、放棄されたものだけが持つ独特の静けさがあった。
雨戸は、わずかに開いていた。
Aさんが言った通り、ほんの数センチ。私はしばらく、その隙間を見ていた。光が奥を照らしている。雨戸、ガラス戸、廊下、そして——
覗き込まなかった。
なぜそうしなかったのか、今でもうまく説明できない。ただ、覗き込んではいけないと思った。何かが、そう言っていた。
その時、背中に視線を感じた。
振り返った。Aさんのベランダは静かで、他の部屋にも人の気配はなかった。誰もいない。だが、見られている感覚は消えなかった。消えるどころか——
私は歩き出した。途中から、走っていた。
アパートから離れて、大通りに出て、初めて立ち止まった。息が切れていた。七月の昼間で、気温は三十度を超えていた。それなのに、背中だけが寒かった。
取材を終えて、三ヶ月が経った。
Aさんは今も同じ場所に住んでいる。「慣れましたか」と尋ねると、少し考えてから答えた。
「慣れた、というより——諦めた、という方が正しいかもしれません」
「何も起きないんです」と彼女は続けた。「ただ、見られている。覗き込まれている。それだけ」
それだけ。だが、それが終わらない。
この文章を書いている今も、雨上がりの日には少し気になることがある。
視界の端。物陰。廊下の暗がり。
気のせいだと思う。思おうとする。
ただ——
あの日、大通りで立ち止まった時のことを、時々思い出す。
背中の寒さ。息の切れ方。走り出す直前、もう一度だけ振り返りたいという衝動を、どうにか抑えた、あの感覚。
今も、あの衝動が、どこかに残っている。

























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