私は社会人になりたての頃、配属先が京都と言われて少し高揚した。
古から、日本の中心であり続け、温故知新、新たな文化の発信点として京都に魅力を感じていた。
仕事に慣れてきた頃、私は華道を始めた。
多くの門下生を抱える池坊華道教室に週1で通い始めて、早1年。
この生活に慣れてきた私の悩みを紹介したい。
それは、「生けた花は枯れてしまうこと」だ。
ドライフラワーやハーバリウムならいざ知らず、教室で生けた花を持ち帰ると2日程度で枯れてしまう。
その一瞬の華やかさ、切なさに侘び寂びがあると先生は言う。
しかし、そんな高尚さよりも「持ち帰った花が朽ちて、ゴミ袋に入れて捨てること」に私は罪悪感を感じがちだった。
枯れた途端に花を視界に入れたくなくなるというのも、人の業であり我儘だろう。
ー6月のある夜、教室からの帰宅道ー
この道は華道教室の帰りにしか通らない。
私は白い包み紙で包んだ生けたばかりの花を抱えて交差点で青信号を待っていた。
「この花もすぐにゴミ箱行きか…」
そんなことを呟いて、うつむいた先に小さな青い小瓶があった。
それは、ちょうど今抱えている花を挿すのにちょうど良い小瓶だった。
ふと目の前の青の小瓶に、手元の花を挿すのはどうだろうかと考えた。
幸い、この通りには華道関係者はいない。
ここなら数日の命とはいえ、道行く人に見てもらえる。
私は咄嗟に人目を盗んで、手元の花を青の小瓶に挿した。花は青の小瓶に小綺麗に収まった。
まるで、花がそこに飾られているのがあたかも自然なように。
その夜は少し足早にその場を去った。
私はそれから、華道教室で生けた花を小瓶に挿すのが習慣になった。
誰かに見てもらいたい花の儚さと吐き違えながら、ポイ捨てを正当化しようとしていたのだ。
幸い、花は町内の誰かが片付けてくれたようで3日もすれば、小瓶だけがポツンとその場にあった。
町内会の掲示板にもそれらしい注意喚起は見当たらない。
ーそれから数週間が経ったある日ー
夏の陽炎が、メラメラと歩く私を追いかける。
ある日曜の朝、近くの古本屋に行こうと、華道教室の道を歩いた。毎週通る道といえど、いつもと逆方向に歩くと新鮮なものだ。
つい、最近花を差した小瓶がある交差点に差し掛かろうとした時だった。
そこには、お婆さんが小瓶に向かって手を合わせて立っていた。
奇妙な感覚に陥る。
これではまるで…献花だ。


























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