水神さんの蛇
投稿者:ごんにゃぶろう (1)
地元に「水神さん」と呼ばれている場所がある。私は母からそう聞いたし、母は祖父母や曾祖母から聞いたという場所だ。これは、その場所に初めて行った時の話。
私がまだ小学生だった時、親戚や家族とともに家から離れた山まで山菜取りに行った。子どもの私と二人のいとこは奥には入らず、道路わきに留めた車が見える範囲で遊んでいた。
その頃、私はきれいな石を探すのが大好きだった。砂の中の石英の粒を集めたり、青緑色の石、縞模様の入った石などを拾っては大事に集めていた。
その時も山へと向かう未舗装の道を少しずつ移動しながらきれいな石を探していた私は、ふと、開けた場所があることに気づいた。何もない荒れ地にばらばらと草が生えているだけの場所だ。
ここはいい石がみつかりそうだと入っていくと、端の方に古びた小さなお社のようなものがある。まだ幼く、それが何なのかははっきりとはわからなかった。ボロボロの木でできたミニおうちがあるなー、くらいの感覚だったと思う。
気になって、さらに近づこうとした時、足元で何かが動いた。視線を落とした私は悲鳴を上げた。リアルに悲鳴を上げることなんてめったにないからか、妙にしっかり記憶している。
そこにいたのは生まれて初めて見る本物の蛇!今にしてみれば小さい、かわいらしい蛇だ。けれどその時はとても恐ろしく、ヒャアと声を上げてしまっていた。飛びずさって逃げたつもりが力が入らず転んだほどだ。腰を抜かすとはこのことか…と思ったのもまた妙によく覚えている。
蛇は私をじぃっと見ていた。体の色は白っぽく、茶色や黒っぽい模様があった気がする。黄色っぽさもあっただろうか。鎌首を少し上げた時にちらりと見えた喉は白かった。
何より記憶に鮮やかなのは黒い丸い目だ。こっちに来たらどうしよう、噛まれたらどうしよう。
怖くて蛇の様子をうかがいながらそろり、そろりと離れる間、蛇は顔を少し持ち上げ、ずっとじっと私を見ていた。まぁるいまぁるい黒い瞳。小蛇のくせに何という存在感だろう。そして荒れ地から一歩出たと思った頃、よそ見か瞬きかをした瞬間に蛇はこつぜんと姿を消した。
本当に、消えたのだ。
辺りにはまばらな草は生えていても、姿を隠せそうな場所はなかったはずだ。地面の色に紛れていたとしたら、ついさっきまではっきりと見えていたことが不自然。当時の私はまた蛇がどこかからくるのではないかと不安に駆られて、しばらくは視線だけで蛇を探した。
どれだけの間そうしていたのだろう。なんだか長時間だった気がするのに、いとこたちの話によれば、どうも一瞬の事だったらしい。さっきまで地面にしゃがみこんで石拾いをしていた私がぼーっと立っているからふざけてぶつかりながら声をかけたという。そんなはずはないと思うのに、年上のいとこの証言は変わらない。
それからしばらくの間、私は外を歩くたびに蛇がいるんじゃないかと思い、草むらに近づくのが怖かった。
私の話を聞いた祖母は「ここに入ってはいけない、と言いに出てきたのかもしれない。水神さんの使いだな」と言った。水神さんの罰が当たると脅かされ、二度と近づかないようにとも。お社に触ってはいないと言い訳をしたけれど、そもそも近づくなと叱られてしまった。
そんな場所なら周囲に柵でも立てておいてくれればいいのに。開けっ放しだなんて逆に怖いじゃないか、と幼い私は憤った。
そもそも車を止めた辺りは道際の草丈が高く、見晴らしのいい荒れ地なんてすぐには目につかないのも怖い。あの時はあんなにはっきりと開けた場所があるなぁと思ったはずなのに。
ついでにその場にいたはずのいとこたちは誰一人、私がそんな場所に入っていったことなど知らないと言いはったのも地味に怖かった。
すぐ近くにいたのにそんなことある?けっこうな悲鳴を上げたはずなのに、それにも気づかなかったというのはなぜ?考えてみると、いとこたちに声を掛けられるまでの時間はやけに静かだった気がした。
子どもどうしだからきっとキャッキャと騒いでいたはずなのに、不思議なことだ。どうにも納得がいかず、この件は忘れられない出来事として私の中にくすぶった。
五年、十年、さらに数年。頭の片隅にあの蛇の黒く艶めくまぁるい目を残したままで、時は過ぎて行った。ただ蛇を見たよ、というだけの話なのになぜ……と自分でも思うが、三十年以上経つ今現在ですら、どうしてもときどき思い出す。
なんなら、たまにあの場所らしきものを夢に見るくらい。夢の中では決して近寄っては行かないから、遠目にも蛇の姿は一度も見ていないけれど。
あの時の記憶をたどると今でも、ジーンと虫の声のようなものが聞こえていたような気がしてくる。でも、春先だったからきっとまだ鳴く虫がいる時期ではないのだ。この地域の春は寒くて、羽虫たちも静かなものだから。鳥などの声だったのか耳鳴りだったのか、それとも単に記憶違いなのか、今となってはもうわかりようがないことだけれど。
大人になった私は、ある日、趣味にまつわる資料が欲しくて自分が住む地域の民話を調べていた。そして、例の水神さんが『人を殺した妖刀を沈めた池(を埋め立てた跡地)』だと伝わっていることを知ったのだ。その逸話には『大量の蛇』が登場することも。
人が手に取らずとも勝手に抜け出して人を切る、そんな恐ろしい刀の伝説。神様が預かってくれるとのおつげに従い、祈りとともに池に放ったら、水面がいっぱいの小蛇に変わって刀を連れて行ったという。
ありがたい話だ。
すばらしい聖地だ。
きっとこの神様は人々を憐れむ、とてもやさしい神様だ。
でも、実は私の地元は北海道。これはアイヌの伝承なのだ。私は本州から移住した開拓民の子孫である。クマだらけの湿地だなんて文句を言いながら大地を開き、畑や田んぼを作った人々がほんの数代前の祖先。急激に変わりゆく地域を眺めたかもしれない水神さん。アイヌから祈りをささげられてきた水と蛇の神様から見た私は、いったい何者なのだろう?
水神さんの祠は現在も存在する。だが、名前とは裏腹に周囲に水の気配はいっさいない。かつては沼だったと聞いていたが、もっともっと昔は違ったようで、伝承を読むとどうも澄んだ水の池があったらしい。祖父母が若い頃までは底なし沼として知られ、母が生まれる前には埋め立てられ、荒れ地に変わり、今は草ぼうぼうの藪の中。
いい話ですね。ゴールデンカムイの妖刀の話そのものだと思います。ペップトコタンの伝わる伝承「イペタム」。