壁際の女
投稿者:夏人 (2)
顔面神経麻痺というのだろうか。
彼女の顔の左側はまるで力んでいるようにゆがんでおり、極端に左目が細くなって、その反動かのように右目はかっと開いていた。左目が閉じてしまっている影響か、左の口元というか、えくぼができる箇所の皮膚も力んでゆがんでおり、少しピクピクと痙攣していた。
一目見ただけで理解した。
彼女がいつもうつむき加減で、必ず左の壁際をとる理由が。
彼女はただ、ゆがんだ顔の左側を、みんなに見られたくなかったのだ。
俺はしょうもない好奇心で人の隠したがっていることをのぞき込んだことに重い罪悪感を感じ、そんな自分の性根に嫌気がさした。
とりあえず謝って席に着きたかったが、この場で謝罪するのも正解なのかわからない。
絡んだだけ絡んで突っ立って固まっている俺に、彼女がぼそりと言った。
「・・・・・・見えちゃうから」
少し時間がたってから、それが俺の質問に対しての答えだとわかり、「あ、そっか」と間の抜けた声を出した俺は、「ごめん、邪魔して」と自分の席に戻った。
罪悪感と猛烈な後悔に押しつぶされそうになっていた俺は席に着くなり、机に突っ伏して狸寝入りをきめた。
彼女はしばらく通路で動きを止めていた様子だったが、しばらくして俺の真後ろの席に座ったのが気配でわかった。壁に顔の左側を押しつける鈍い音が聞こえた。
講義が始まり、講師の声が聞こえ始める。時間がたてば立つほど、彼女に対して行った非礼への罪悪感が増していった。
講義が中盤に入った時、俺はもう一度、もう一言ちゃんと謝っておきたいと言う気持ちが抑えきれなくなった。
俺はなけなしの勇気をふりしぼって顔をい上げると、ひと思いに振り返った。
そこで俺は再び戦慄した。
彼女の顔には何のゆがみもなかった。
両の目をごく自然に開いた、しわ一つない色白の顔が、俺を見つめていた。
顔の左側を壁に押しつけて。
「え、顔・・・・・・」
思わずそう漏らした俺を彼女は怪訝そうに見てから、「ああ」と合点がいったような表情を見せてからまた小声でつぶやいた。
「こうしてれば見えないの」
彼女は動きで説明するかのように、両目を開いたまま、よりより強く顔を壁に押しつけた。
「ちょっとでも隙間があると入ってきちゃうから・・・・・・・こうすると完全に見えなくなるの」
俺はまたしばらく固まって、そこでようやく、彼女が恐れていることが、「見られる」ことではなく、「見てしまう」ことなんだと気がつき、急いで前を向いた。
講義終わりに席を立った彼女は、また左目を力いっぱいつむり、何かから逃げるように足早に教室を出て行った。
その後、その講義がすべて終了してから、卒業までに一度だけ彼女を見かけた。
彼女は大学の廊下の左端を、壁に肩をこすりつけるようにして早足で歩いていた。
彼女の左側には、いつも何がいるのだろう。それほどまでに見たくないものとは一体何なのだろうと、今でも考えずにはいられない。
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