思い出すたび、胸の奥に冷たいものが流れ込む。 あの夜のことは、もう随分前のことだけれど、 ふいに鮮明に蘇るときがある。静まり返った病棟の廊下。 そして、あの目。
誰にも話したことはない。 語ろうとすると、あの夜の空気まで引きずって しまいそうで。
季節は冬。
私にとって、看護師1年目の、最初の冬だった。
夜勤に入るのは、もう慣れていた。
この病院に来て半年。配属先の内科病棟は慢性的な人手不足で、新人でも容赦なく夜勤に組み込まれた。
「しっかりしてるね」と言われることが多かった。
でも、それはたぶん、表面だけ。
私は「ミスをしない」ことで、誰にも嫌われないようにしていただけだった。
本当はいつも心が張りつめていた。人間関係のギスギスした空気、先輩たちの無言の圧、仕事の重さ。
笑顔を浮かべながら、ずっと息を止めているような毎日だった。
私はたぶん、ずっと限界ギリギリだったのだと思う。
眠れない日が続いて、夜勤のたびに胃が重くなった。
誰も見ていないところで泣いたこともある。
患者の前では笑顔を作れるのに、鏡に映る自分の目を見るのが、たまらなく怖かった。
笑っているはずなのに、目だけが笑っていなかった。
その奥には、何かがぽっかりと抜け落ちていて、黒く沈んでいた。
あの夜も、特に変わったことはなかった。
ナースステーションではいつも通りの業務が進み、患者たちは静かに眠っていた。
午前2時。
巡回を終えて廊下を歩いていると、大きな窓に映った自分の影の隣に、一瞬だけ、もう一つの影が揺れた気がした。
驚いて振り返る。誰もいない。
気のせい、だと思った。そう思い込まないと、足がすくんでしまいそうだったから。
午前3時すぎ。
記録をつけていたとき、どこか遠くの病室のほうから「コツ」と床を叩くような音がした。
靴音にも似ていたが、たった一歩だけ。
何かが歩きかけて、止まったようなそんな音だった。
私は手を止めたが、誰にも確認しなかった。
確かめる勇気が出なかった。

























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