そして金曜日になった。
仕事を終えた山下さんは、一度自宅へ戻った。
軽くシャワーを浴び、着替えを済ませる。
先輩さんの家は駅から近い。
もしかしたら酒を飲むかもしれない。
そう考え、車ではなく電車で向かった。
最寄り駅に着くと、コンビニへ立ち寄る。
弁当。
菓子。
酒。
それらを買い込み、先輩さんの家へ向かった。
玄関を開けると、見慣れた部屋だった。
以前と変わらない。
だが、どこか生活感だけが薄くなっているようにも感じたという。
ヨウコさんがいなくなったからだろうか。
そんなことを考えたそうだ。
それから二人は食事をした。
酒も少し飲んだ。
釣りの話をした。
ゲームの話をした。
まるでいつも通りだった。
あの話さえなければ。
そうして時間は過ぎていく。
時計の針が午前一時を指した頃。
先輩さんが立ち上がった。
「そろそろ始めるか」
山下さんの背筋が少しだけ強張った。
儀式の準備はすでに終わっていた。
ぬいぐるみも用意されていたらしい。
先輩さんは慣れた手付きで手順を進めていった。
その様子を見ながら山下さんは違和感を覚えたという。
妙に手際が良い。
本当に数回しかやっていない人間の動きには見えなかった。
そして。
いよいよ押し入れへ隠れる段階になった。
押し入れの上段は綺麗に片付けられていた。
中の荷物は全て外へ出されている。
人が入るためだけに用意された空間。
そんな印象だったという。
部屋の中はテレビの光でぼんやり明るかった。
だが押し入れの奥は暗い。
山下さんは念のため、いつも鍵束に付けている小さなライトを胸ポケットへ入れた。
懐中電灯ではなく、周囲を照らせるランタン型のものだった。
そして二人は押し入れの中へ入った。
思ったより広かった。
男二人でも何とか座れる。
襖の隙間から部屋の光も少し入ってくる。
完全な暗闇ではなかった。
「いつもどれくらいで来るんですか?」
小声で尋ねる。
「その時によるかな」
先輩さんも小声で返した。
「どんな感じで現れるんです?」
「気配かな」
そんな会話を交わしたあと。
二人は黙った。
待った。
そして数分が経った。
何も起きない。
時折。
パキッ。
ガタッ。
そんな音が聞こえる。
だが古い家なら珍しくもない音だった。
さらに時間が過ぎる。
何も起きない。
「来ませんねぇ……」
山下さんが呟く。
「もう来てもおかしくないんだけどなぁ……」
先輩さんが答える。
その時点で山下さんは少し安心していた。
同時に少し残念でもあった。
怖いもの見たさ。
そんな感情もあったのだろう。
だが現実は退屈だった。
秋とはいえ、押し入れの中に男二人。
空気は悪い。
腰も痛い。
同じ姿勢も辛い。
集中力も切れてくる。
むしろ、
――男二人で押し入れに隠れている状況の方が面白い。
そんなことすら考え始めていた。
――もうやめませんか。
そう言おうと思った。
先輩さんへ声を掛けようとした。
その瞬間だった。
空気が変わった。
スゥ――――ッ。
まるで部屋中の空気が重く沈んだような感覚。
心臓が跳ね上がった。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
鼓動が耳の中で鳴り響く。
「何だ……?」
そう思った時だった。
押し入れの隙間から差し込んでいた光が、
一瞬。
途切れた。
誰かが前を横切ったように。
チラ。
チラ。
チラ。
光が遮られる。
外に誰かいる。
そう感じた。
そして山下さんが先輩さんへ声を掛けようとした時。
「ヨウコがぁ……来たよぉ……」
先輩さんが呟いた。
妙だった。
力がない。
夢を見ながら話しているような声だった。
その直後。
押し入れの襖が、
ペコッ。
外から押された。
山下さんの全身が硬直する。
続いて。
シューッ……
シューッ……
シューッ……
誰かが襖を撫でる音がした。
「ヨウコぉ……」
「今日は遅かったねぇ……」
先輩さんが話し掛ける。
返事は聞こえない。
だが先輩さんは会話を続ける。
「今日はねぇ……」
「山下君も来てるんだよぉ……」
「覚えてるぅ……?」
そして。
一人で笑った。
「へへへ……」
「そうなんだぁ……」
山下さんは耐えられなくなった。
胸ポケットからライトを取り出す。
だが焦っている。
指が動かない。
スイッチはどこだったか。
回すんだっけ。
押すんだっけ。
手が震える。
ようやく光が点いた。
そして先輩さんへ向ける。
その瞬間。
山下さんは理解できない違和感を覚えた。
腕が多い。
先輩さんの腕が、
四本ある。
思考が止まった。
視線がゆっくり上へ向かう。
そして。
先輩さんの背後に、
誰かがいた。
女だった。
先輩さんを後ろから抱いていた。
顔を寄せていた。
まるで恋人に甘えるように。
まるで愛おしむように。
そして先輩さんは。
虚ろだった。
目に光がない。
笑っている。
だが生気がない。
何かに酔っている人間のような顔だった。
山下さんは動けなかった。
逃げたかった。
だが動けなかった。
後になって理由を聞くと、山下さんはこう答えた。
「清水の話を思い出してたんですよ」
押し入れを開けてはいけない。
絶対に開けてはいけない。
そのルールだけが頭の中を回っていたという。
だから耐えた。
ただ耐えた。
先輩さんは誰かと話し続けていた。
だが声は一つしか聞こえない。
先輩さんの声だけだ。
相手の声は聞こえない。
ただ時折。
「へへへへへ……」
と笑う。
その様子を見続けるしかなかった。
何分経ったのか分からない。
五分だったのか。
三十分だったのか。
その頃には時間の感覚も曖昧になっていたという。
そして山下さんは後にこう言った。
「精神が壊れる境界線ってあるんですよ」
その時、自分はそこに立っていた。
そう感じたのだという。
ふと。
空気が軽くなった。
重圧が消えていく。
同時に女の姿が揺らいだ。
ぼやける。
輪郭が崩れる。
そして。
一瞬だけ。
その表情が変わった。
悲しそうな。
寂しそうな。
何かを諦めたような顔。
そんな風に見えたという。
そして初めて。
その女が山下さんを見た。
何かを言った。
口が動いた。
だが聞こえない。
音だけが存在しない。
そして姿は薄れていき、
完全に消えた。
直後。
先輩さんが呟いた。
「あぁ……」
「ヨウコ帰っちゃったぁ……」
その一言で限界だった。
張り詰めていたものが切れた。
「うわあああああっ!」
山下さんは叫んだ。
襖を開け放った。
荷物を掴んだ。
玄関へ走った。
靴を履く余裕もなかった。
靴を手に持ち。
靴下のまま外へ飛び出した。
そして振り返ることなく、
夜の街を全力で走ったという。

























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