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不思議体験

カーセさんによる不思議体験にまつわる怖い話の投稿です

交代の音
短編 2026/02/11 17:21 27view

夜遅く、美咲は仕事帰りにいつもの路地を通り抜けていた。街灯はまばらで、風が古い看板を揺らすたびに金属音が耳に刺さる。今日は妙に静かで、足音だけが自分の存在を証明しているようだった。

角を曲がると、古いアパートの前で立ち止まった。窓の一つだけ、薄いカーテンの隙間から淡い光が漏れている。そこに貼られた紙切れには、鉛筆で小さく「来ないで」と書かれていた。美咲は笑って、そんな張り紙を真に受けるほど臆病ではないと思った。だが、胸の奥に小さな違和感が残った。

部屋に戻ると、鍵を閉める前に廊下の向こうから微かな音が聞こえた。最初は風かと思ったが、規則正しいリズムがある。トントン、トントン。誰かが壁を軽く叩いている。美咲は「隣の人だろう」と自分に言い聞かせ、鍵を回した。

夜中、目が覚めるとまたその音がした。今度はもっと近く、まるで壁の向こうではなく、自分の部屋の中から聞こえてくるようだった。トントン、トントン。音はベッドの足元、クローゼットの方から来ている。美咲は布団をかぶって息を殺した。音は止まない。むしろ、ゆっくりとリズムを変え、まるで言葉を作ろうとしているかのようだった。

翌朝、クローゼットを開けると、古い日記帳が一冊落ちていた。表紙には名前が書かれていない。ページをめくると、そこには見覚えのある字で日付と短い文が並んでいた。最初は他人の記録だと思った。だが読み進めるうちに、内容が美咲の記憶と一致し始めた。子供の頃に隠したおもちゃ、初恋の失敗、昨年の誕生日に一人で食べたケーキの味まで。ページは未来へと続いているようで、次第に現在の出来事を予言するかのように書かれていた。

最後のページの下の方に、鉛筆で小さくこう書かれていた。
「今夜、あなたが目を覚ますと、私が叩く。返事をしてはいけない。返事をすると、交代だ。」

美咲は笑いをこらえた。誰かの悪戯だろう。だが夜が来ると、あの音は戻ってきた。トントン、トントン。今度は確かに、日記の指示どおりに聞こえる。胸が締め付けられるように怖くなったが、ページの言葉が頭にこびりついている。返事をしてはいけない。交代だ。

音はだんだんと近づき、クローゼットの扉のすぐ裏で止まった。トントン。トントン。美咲は布団の中で震えながら、目を閉じた。時間がどれだけ経ったのか分からない。やがて音が止み、静寂が戻った。安堵の息をつこうとした瞬間、耳元で低い囁きが聞こえた。自分の名前を、誰かが呼んだ。

「美咲…」

声は自分の声に似ていた。いや、もっと古く、擦り切れたような響き。美咲は反射的に答えそうになったが、日記の言葉が脳裏で光った。返事をしてはいけない。交代だ。唇を噛みしめ、息を殺す。声はさらに近づき、今度はクローゼットの扉の隙間から冷たい空気が流れ込んだ。

朝になって、隣人がドアを叩いた。顔色が青ざめている。彼は昨夜、誰かが部屋の中で叩く音を聞いたと言う。美咲は笑って「それは俺だ」と答えた。だがその瞬間、隣人の目が凍りついた。彼の手には、美咲の名前が書かれた古い日記の切れ端が握られていた。そこには、昨夜の出来事が鉛筆で細かく記されていた。最後の行には、**「今朝、交代が完了した」**とだけ書かれていた。

美咲は自分の手を見た。指先に、見覚えのない古い傷跡があった。胸の奥が冷たくなり、頭の中で何かが引き裂かれるような感覚が走った。鏡を見ると、そこに映る自分の顔は少しだけ違っていた。目の奥に、見知らぬ年輪のような影がある。思い出せないはずの記憶が、断片的に浮かんでは消える。誰かの声、誰かの部屋、誰かの最後の夜。

夜が来るたびに、トントンという音は戻ってくる。日記はページを増やし、未来の出来事を書き続ける。美咲は返事をしないように必死で耐えるが、ある夜、声はあまりにも切実に、自分の名前を呼んだ。声は震え、助けを求めているようだった。胸が張り裂けそうになり、ついに美咲は囁き返した。

「誰だ…?」

クローゼットの扉がゆっくりと開き、薄暗い影が現れた。そこに立っていたのは、美咲の顔をした別人だった。顔は少し古びていて、目は深い穴のように空いている。影は微笑み、手を差し出した。**「交代だよ」**と、まるで長年の約束を果たすかのように言った。

美咲は叫んだ。だが声は自分のものではなく、どこか遠くで反響しているだけだった。影が手を握ると、世界が一瞬、白くなった。気がつくと、隣人がドアを叩いている。彼は美咲の名前を呼んだが、返事はない。クローゼットの中には、古い日記と、見覚えのある字で書かれた最後の一行だけが残されていた。そこには短く、淡々とこう書かれていた。

「交代は完了した。次はあなたの番だ。」

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