翌月、A男は帰らぬ人となった。死因は交通事故。
――事故の翌日。
病院の白い廊下は、
音が、やけに響いた。
医師の説明は、
途中から、ほとんど頭に入ってこなかった。
ただ一つだけ、
はっきりと残った言葉。
「……助かりませんでした」
柚奈の母——
まだ子供だった彼女は、
その場で泣かなかった。
泣けなかった。
家に帰ると、
玄関で靴を脱ぐことも忘れて、
そのまま立ち尽くした。
「……お母さん」
声が、震える。
台所にいた母親が、振り向く。
「どうしたの?」
その瞬間、
堰を切ったように言葉が溢れた。
「廃屋に、入った」
「夜中に」
「ふざけて」
「A男を、怖がらせて——」
最後まで言えず、
膝から崩れ落ちた。
柚奈の母の母は、
黙って話を聞いていた。
途中で遮らない。
叱らない。
全部を聞き終えたあと、
一度だけ、深く息を吐いた。
「……やっぱり」
その一言に、
柚奈の母は顔を上げる。
「知ってたの?」
「知ってたわけじゃない」
母は、静かに言った。
「知っている“世代”があった」
棚の奥から、
古い紙袋を取り出す。
中には、
黄ばんだ紙と、
数字の書かれた走り書き。
——18。
「昔ね」
母は続ける。
「この村には、
言わなくても守る約束があったの」
「でも、時代が変わって、
誰も話さなくなった」
柚奈の母は、唇を噛んだ。
「……私のせいで」
「違う」
母は、はっきり言った。
「知らなかったことが、罪になる場所もある」
そして、
すぐに電話を取った。
「——もしもし」
相手は、
奈々の母の母。
奈々の父の父。
短い説明。
「……そう」
「やっぱり、あの家」
電話を切ると、
母は立ち上がった。
「行くわよ」
「どこに?」
「寺院」
柚奈の母の目に、
初めて涙が浮かぶ。
「……今さら?」
「今だから、よ」
母は、強く言った。
「“順番”の途中かもしれない」
「今なら、
まだ、間に合うかもしれない」
車の中は、
異様なほど静かだった。
奈々の両親の親たちも合流する。
誰も、余計なことは言わない。
寺院の門が見えたとき、
柚奈の母は、
胸が締め付けられるのを感じた。
——遅かったかもしれない。
——でも、行かなければならない。
本堂に入ると、
当時の住職が、すでに待っていた。
一目見ただけで、
すべてを察した顔。
「……入りましたね」
その一言で、
柚奈の母は、
初めて声を上げて泣いた。
「ごめんなさい……」
「ふざけて……」
「知らなくて……」
住職は、
静かに首を振る。
「知らなかった、では済まない場所です」
「ですが」
一拍、置いて。
「知った以上、背負うことはできます」
その言葉が、
柚奈の母の中に、
深く突き刺さった。
——怖がらせる側だった自分が、
——これからは、
——止める側になる。
その日、
柚奈の母は初めて、
18という数字を、
“笑えないもの”として覚えた。
そして——
次の世代には、
同じ後悔をさせないと、
心に誓った。
だが。
その誓いが、
完全に守られることは、
なかった。
——柚奈たちが、
あの廃屋に向かうまでは。
寺院の本堂で、
古い帳面が広げられた。
紙は黄ばみ、
角はすり切れている。
住職は、
その一ページを指で押さえた。
「……A男くんが亡くなった日」
柚奈の母は、
喉が、ひくりと鳴るのを感じた。
「——18日です」
一瞬、
誰も言葉を発しなかった。
奈々の父の父が、
低く言う。
「……18日?」
住職は、ゆっくりと頷く。
「ええ。
18日の、18時過ぎ」
その瞬間、
柚奈の母の中で、
点が、線になる。
「……じゃあ」
声が、震える。
「私たちが、
廃屋に入った日から……」
住職は、帳面をめくった。
「ちょうど、18日目」
重なる。
・廃屋に侵入した日
・不幸が始まった日
・事故が起きた日
・日付
・時間帯
すべてが、
18で揃っている。
「偶然、じゃない……」
奈々の母の母が、
かすれた声で言う。
住職は、否定しなかった。
「この怨霊は、
日を選びます」
「18日」
「18時」
「18という数字が、
“仕上げ”になる日」
柚奈の母は、
思い出す。
——A男は、
——事故の前日、
——「明日、なんか嫌な感じがする」と言っていた。
「……止められた、かもしれない」
そう呟いた瞬間。
住職は、
はっきりと言った。
「いいえ」
全員が、顔を上げる。
「止められたのは、
18時までです」
「18日という日付そのものが、
最後の段階」
「その前に、
“やるべきこと”を知らなければ、
誰にも止められません」
柚奈の母の目から、
涙が落ちた。
「……私、笑ってた」
「小さな不幸を」
「遅刻も、
信号の見落としも」
「全部……」
住職は、
静かに続ける。
「小事を、
小事のまま終わらせる」
「それができなかった時点で、
18日は——」
言葉を、切る。
「致命を受け取る日になります」
奈々の父が、
唇を噛みしめた。
「……じゃあ、
A男は」
「選ばれたのではありません」
住職は、
低く言った。
「押し出された」
「ふざけて触れた者」
「一番、恐怖を向けられた者」
「一番、怨霊に“見られた”者」
柚奈の母は、
両手で顔を覆った。
「……私が」
「違います」
住職は、
しかし、逃がさなかった。
「あなたが“始めた側”だったのは、事実です」
その言葉は、
刃のように鋭かった。
だが、続く言葉は違った。
「だからこそ、
あなたは——」
「終わらせ方を、知る側にならなければならない」
沈黙。
外で、鐘の音が鳴った。
——18時ではない。
だが、
数字を意識した瞬間だった。
柚奈の母は、
ゆっくりと顔を上げる。
「……次の世代には」
「18日を、
“ただの不吉な日”で終わらせない」
「意味を、渡す」
住職は、
深く頷いた。
「それが、
A男くんが残した——」
「唯一の“鎮め”です」
帳面の端に、
小さく書かれた文字。
《18日 致命》
柚奈の母は、
その文字を、
一生忘れないことになる。
——そして、
柚奈が同じ数字を見た時、
無意識に足を止める理由も。
すべては、
この18日から始まっていた。
本堂の奥。
住職は、帳面を閉じずに、もう一冊の古い巻物を取り出した。
表紙に書かれている文字。
——鎮魂十九段。
柚奈の母は、思わず声を出す。
「……十九?」
住職は、ゆっくりと頷いた。
「ええ。
お祓いは、十九個の儀式を順番に行います」
奈々の母が、眉をひそめる。
「でも……呪いは十八じゃ……」
「だからです」
住職は、静かに言った。
「十八で終わらせないために、十九がある」
帳面を指でなぞりながら、続ける。
「十八は、閉じる数字」
「死者が、こちら側に“届く”数字」
「ですが十九は——」
一拍、置く。
「越える数字」
柚奈の母の胸に、
すとんと落ちる感覚があった。
「……生き残る、数字」
「その通りです」
住職は、初めてはっきりと笑った。
巻物には、
十九の儀式が、順に書かれていた。
「一つ目は、名戻し」
「呪いに触れた者の名前を、
怨霊の“数え”から外す」
「二つ目、時刻切り」
「18時を境に、
不幸が跳ね上がらないよう、
時間の流れを区切る」
「三つ目、足止め」
「事故や転倒といった
“動きの不幸”を抑える」
住職は、淡々と数えていく。
四つ目。
五つ目。
六つ目。
柚奈の母は、途中で気づく。
——どれも、
——A男に起きた不幸に、
——一つずつ対応している。
「……待って」
震える声で言う。
「じゃあ、
この十九個を——」
「最初から知っていれば」
住職は、はっきりと言った。
「A男くんは、生きていました」
その言葉は、
慰めではなく、
事実だった。
沈黙が落ちる。
住職は、最後の段を示す。
「十九番目の儀式」
そこだけ、文字が違う。
——墨が、濃い。
「忘却封じ」
柚奈の母が、顔を上げる。
「……忘却?」
「ええ」
住職は、低く言った。
「この呪いは、忘れられることで再び強くなる」
「だから最後に行うのは——」
「覚えている者を決める儀式です」
奈々の父が、息を呑む。
「……覚えている、者?」
「はい」
住職の視線が、
柚奈の母に向いた。
「語り部です」
「次の世代に、
意味を渡す役目」
「それを決めずに終えると——」
巻物を、閉じる。
「十八に、引き戻される」
柚奈の母は、
自分の胸に、重いものが落ちるのを感じた。
——だから、
——忘れた世代で、
——A男は死んだ。
「……私が」
声が、かすれる。
「私が、やる」
住職は、頷いた。
「それが、
十九番目の完成です」
外で、風が鳴る。
十八を閉じ、
十九で越える。
この村が、
長く生き延びてきた理由が、
その瞬間、
はっきりと形を持った。
——そして現代。
柚奈たちが受けたお祓いも、
確かに——
十九個、すべて行われていた。
だからこそ、
今年の18は、
静かに眠っている。
だが。
十九番目を担う者が、
次の世代に渡さなければ——
また、
十八は、
数え始める。


























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