ここから過去編に入ります。
――90年前ではない、
ほんの20数年前の話。
夜の田んぼは、今よりもずっと暗かった。
街灯は少なく、月明かりだけが道を照らす。
「マジで行くの?」
A男が、廃屋を見上げて言った。
「行くに決まってるでしょ」
柚奈の母——当時はまだ小学生で、
今より短い髪を揺らしながら、にやっと笑う。
「立ち入り禁止って書いてあるとさ、
逆にワクワクしない?」
奈々の母が、小声で言う。
「でも……やめといたほうが……」
「大丈夫大丈夫!」
柚奈の母は、両手を広げて宣言した。
「ぶっ飛ばすぜベイベー!」
意味なんて、誰も考えていなかった。
ただ、
“怖いことをする自分”が楽しかった。
裏口の窓。
お札が、半分剥がれている。
「ほら、入れるじゃん」
柚奈の母が、無理やり押し開ける。
畳が、きしりと鳴った。
「うわ……」
A男が、明らかに怯えた声を出す。
「なにそれ〜?」
柚奈の母は、わざと足音を立てる。
「もう怖いの?」
「べ、別に……」
A男は、そう言いながら、
入口から一歩も進まない。
「じゃあさ」
柚奈の母は、
懐中電灯を下から顔に当てた。
「——ここ、
夜中に子供の霊が出るって噂なんだけど」
「ちょ、やめろよ!」
A男が、後ずさる。
奈々の父が、慌てて言う。
「おい、さすがに——」
「いいじゃんいいじゃん!」
柚奈の母は笑う。
「肝試しなんだから!」
二階への階段。
闇が、濃くなっている。
「A男、先頭ね」
「えっ!?」
「だって、男でしょ?」
その言葉に、
A男は断れなかった。
階段を上るたび、
軋む音が、やけに大きく響く。
二階の部屋。
——お札だらけの部屋。
「……なに、これ……」
A男の声が、震えた。
「うわ、すご」
柚奈の母は、逆に興奮する。
「本格的じゃん!」
引き出しに、気づく。
「これ、開けたらヤバいやつじゃない?」
そう言って、
わざと一段目に触れる。
A男が、叫ぶ。
「やめろって!!」
「冗談冗談!」
——その時。
ろうそく台が、
かすかに鳴った。
青でも白でもない、
“何も灯っていない芯”が、
闇の中で、こちらを向いている。
一瞬だけ、
全員が黙った。
「……今の、風じゃない?」
奈々の母が、そう言った。
「気のせいでしょ」
柚奈の母は、肩をすくめる。
「ほら、A男」
「幽霊なんて——」
その時、
A男の足元で、畳が鳴った。
「——っ!!」
A男は、
声にならない悲鳴を上げ、
階段を転げ落ちるように逃げた。
「ちょ、待って!」
外に出ると、
A男は息を切らし、
泣きそうな顔で叫んだ。
「……もう、帰る!!」
柚奈の母は、少しだけ拍子抜けした顔をした。
「えー、ノリ悪いなぁ」
——その時は。
それが、
**“一番最初の不幸”**だったことを、
誰も知らなかった。
数日後から始まる、
小さな失敗。
18日後の、
18時過ぎ。
あの時の笑い声は、
もう、どこにも残っていない。
廃屋だけが、
何事もなかったように、
田んぼの真ん中に立ち続けていた。
——まるで、
選ばれるのを、待っていたかのように。

























※コメントは承認制のため反映まで時間がかかる場合があります。