山姫は笑い続ける
投稿者:懐炉 (9)
ところが……前方に視線を投げたままあとじさったせいで、地面に落ちてた小枝をへし折ってしまいました。
異形の夫婦がそろって振り向きました。口元は血でしとどに汚れています。
視線が絡んだ次の瞬間、自分が首をかき切られて血を吸われている光景が鮮明に浮かびました。
咄嗟に石ころを掴んで投げました。すると偶然にも男の額に命中し、苦痛の呻きを上げて蹲ります。やったと喜んだのも束の間、夫を傷付けられた女が血相変えて向かってきました。
捕まったら殺されると確信し、脇目もふらず駆け出しました。
「お前たちはなんなんだ、どうしてそんなかっこで山奥にいるんだ!」
真っ当な疑問に返事はなく、女は恐ろしい健脚でたちどころに距離を縮めてきます。山歩きに慣れているなと妙に冷静な心の片隅で感心しました。
体力の限界に達した頃合い、行く手に密に茂った木々が切れ、拓けた空間に放り出されました。
「うぐっ!?」
そこには夥しいカラスの死骸が転がっていました。アイツらが殺したカラスです。さらに視線をずらすと、手頃な石が積み上げられた石塔が結構な数存在しています。
「これは……」
「きははっ」
奇妙な笑い声に振り向くと、女が裸足で歩んでくる所でした。目は完全に正気を失っています。垢じみた肌と伸び放題の髪は昔話にでてくる山姥そっくりですが、近くで見直した顔は意外と若く、ひょっとしたら二十代かもしれないと思いました。
脳の奥で既視感が疼きました。この女とどこかで会った事がある、と思ったのです。
必死に記憶を手繰り寄せ、女の正体を理解しました。
「あんた……三年前に行方不明になったT子さんか?山道の入口に立札があった」
俺は山に入る際、彼女の顔写真を掲載した立て札を見ていました。
そして今……三年前に山で消息を絶ったT子24歳が、変わり果てた姿で目の前に立っていました。
疑い深げに本名を言い当てた途端、狂った笑い声が止んで静寂が張り詰めました。
女の瞳には一抹の理性の光が戻り、悲哀に歪んだ表情で訴えかけてきます。
「もうもどれない」
どういうことだと問い質す暇もなく、だしぬけに立ち込めた霧が彼女を覆い隠します。
数十秒後に目を開けたところ常盤さんは跡形なく消え去っており、私は元の山道に戻されていました。
無事に下山したのち、旅館の中居さんにある伝承を教えてもらいました。
それは山にでる妖怪・山姫の話で、彼女たちは裸に腰蓑を付け、狂ったように笑いまくり、行き会った人々を脅かすのだそうです。
「山神は夫婦神ともいわれてるんです。山女と山男はセットで語られてるんですよ」
中居さんの言葉と常盤さんのいでたちを結び付けて妄想しました。
あの山には本当に山男がおり、気に入った女性をさらっているのかもしれません。
カラスの墓場で私が見た石塔は、山男が……あるいは人の心を捨てきれない常盤さんが築いた、先代の山姫たちの墓標ではないでしょうか。
怖すぎるわ