久しぶりに顔を合わせた席で、啓介は最初から水だけを頼んだ。
氷の入ったグラスを両手で持ち、喉に通すたびに小さく息をつく。
冗談で酒を勧めると、笑って首を振った。
「あれを思い出すと、喉が詰まる」
それだけ言って、箸も動かさないまま、話し始めた。
専門学校の最後の冬だった。仲間内で短期のバイトを拾った。閉鎖中の大型物流施設で、倉庫内の備品と番号札を棚卸しし、引き継ぎ用の台帳にまとめる。五日間。六人。雪の時期で、施設周辺は工事中。一般車は入れず、送迎のワゴンで毎朝入り、夕方に出る手はずだった。
初日の朝、駅前で水とカップ麺と缶詰を買い込んだ。施設内には売店も自販機もなく、工事の都合で外に出るのも禁止だと言われた。ワゴンに三十分揺られると、灰色の建物がいくつも並ぶだけの場所に着いた。扉をくぐった瞬間、冷えた金属の匂いが鼻を刺した。天井は高く、空間は広いのに、どこか息苦しい。倉庫というより、巨大な箱の内側にいる感じがしたという。
作業は単純だった。広いフロアにラックが並び、棚ごとに番号が振られている。紙のラベル、プラスチックの札、古い鍵束、用途の分からない金具。人の名前が印刷された名札も混じっていた。夕方まで黙々と数え、夜は詰所の休憩室で寝る。窓は高い位置に小さく、外は見えない。暖房は弱く、床が冷たかった。
二日目の夜、テレビで大きな逮捕劇が流れていた。誰かが適当に感想を言い、皆で笑った。啓介はその内容は覚えていないと言った。ただ、その夜だけ、建物の奥から返る音がやけに澄んでいた。
三日目の消灯後、最初に「今、鳴った」と言い出したのは亮だった。空調の唸りだろうと誰かが言ったが、次の瞬間、全員が同じ音を聞いた。遠くのシャッターの向こうで、硬いものがゆっくり擦れる音。ゴムがコンクリートを舐めるような、間の長い引きずり。
止まった、と思った直後、低く響く音が足裏の骨に残った。床は揺れていないのに、骨だけが覚えている。誰かが冗談を言い、笑いが起きた。鍵を確認し、懐中電灯を枕元に置いて眠った。
翌朝、通路の床に幅一メートルほどの白い帯が伸びていた。塗装の艶が削れ、粉を吹いたような痕だ。真っすぐではなく、ゆるく蛇行している。境目だけが不自然にくっきりしている。昨夜までなかった。
責任者の姿はなかった。工事区画が変わり、立ち入りはさらに制限された。迎えは予定通り翌日の昼に一度だけ。携帯は圏外。外に出ることも禁止。四日目の夜も休憩室で過ごすしかなかった。
その夜、照明が一斉に落ちた。一本ずつではない。瞬間的に、全体が暗くなる。非常口の緑だけが浮き、部屋の角が沈む。立ち上がった誰かの靴音が、やけに遠くで鳴った。
同時に、あの音が始まった。今度は近い。ゆっくり、確実に、何かが床をなでて進む。規則的なのに、間が不揃いだった。亮が黙ったまま飛び出した。止める間もなく、扉が開閉する音が響く。
数分後、五人で荷捌き場へ向かうと、亮はしゃがみ込んでいた。背を丸め、首だけを細かく振っている。声をかけても反応しない。目は開いているのに、焦点が合っていなかった。
二人が暗い通路へ向かった。戻ってきたのは一人だけだった。口を開けようとして開けない。肩だけが震えていた。
啓介は一人で通路へ出た。非常灯の薄い光で距離感が狂う。白い帯は奥へ続いている。角を曲がった先、帯の起点のあたりで、それを見た。
作業用の手袋が床に並んでいた。何十も。中身のない手袋が、指先だけで何かを掴んでいる。掴んでいるはずなのに、ロープは揺れていない。手袋は膨らんだり萎んだりを繰り返し、わずかに位置を変える。そのたびに、床の粉が広がる。
連なった先に、膨らんだ袋があった。重いはずなのに、引きずる音は軽い。袋が通るたび、白い帯が少し太くなる。増えているのか、重なっているのか分からない。
袋の口はわずかに開いていた。中には札が詰まっていた。名札、鍵札、番号札。角が欠け、汗の染みが残り、印字が薄れたもの。人の名前が読めるものもあった。啓介は一枚だけ、自分たちの台帳に記した番号と同じものを見た気がしたという。
その瞬間、手袋のいくつかが、同時にこちらへ向きを変えた。掴んでいるはずの指が、空いた。
啓介は倒れた。
翌朝、六人は荷捌き場の外で倒れていた。冷たい床の上に、投げ出されたように。亮だけがいない。
三人で管理棟へ向かう途中、機械室に続く狭い廊下で亮を見つけた。扉の縁に沿って、透明な封印テープを短く切っては貼り、切っては貼っている。隙間が出ないように、端を揃え、気泡を押し出し、爪で撫でつける。目は虚ろなのに、手だけが正確だった。
後日、亮は言った。三日目の昼、立ち入り禁止の扉の封印テープを剥がした。中を覗くつもりはなかった。ただ、剥がすときの「ピリッ」という音が気持ちよかった。それだけだと。
目が覚めたとき、戻さなければならないと思った。完璧に。隙間なく。そう思う以外のことが消えた。
それ以来、亮は人を避けるようになった。集まりには来ない。連絡も短い。
啓介は最後に、白い帯のことを言った。
あれは増えてた。最初に見た幅より、次の日のほうが太かった。重なった粉の層が、少しずつ高くなってた。

























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