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phoenixさんによる特別投稿にまつわる怖い話の投稿です

消えない同居人 〜三〇二号室〜
長編 2026/01/16 15:44 70view

プロローグ:境界線の侵食

五年前、私は三〇二号室の一部になった。
正確に言えば、「私という人間」は、その日からそこに“残った”。
今こうして外を歩き、カフェでコーヒーを飲み、文章を書いているこの身体は、もう私のものではない。
これは、部屋になってしまった人間の話だ。

私は、自分の指先を信じることができない。
今も、カフェのテーブルでこの原稿を書こうとしながら、左手が勝手に動いている。無意識のうちに、コーヒーカップを数ミリ、また数ミリと、テーブルの端へ向かって押しやっているのだ。
脳が「止めろ」と命令しても、指先はそれを嘲笑うかのように、独立した生き物になって蠢き続ける。私という意識が、自分の肉体から少しずつ切り離されていくような感覚。
昨夜は、自分自身の体を動かしていた。
夜中にふと目が覚めると、私はベッドの上ではなく、冷たいフローリングの上で、玄関のドアに向かって数センチだけ這い出した状態で固まっていた。
意識が途切れるたびに、私の肉体は、私を「外」へ追い出そうとする。
いや、違う。私を「外」へ追い出した後の空白に、**「次の誰か」**を招き入れようとしているのだ。
すべては五年前、あの静かなマンションの、三〇二号室に足を踏み入れた瞬間に決まっていた。
私は、あの部屋から救い出されたのではない。
ただ気付けばーーあの部屋の続きになっていた。
第一章:招かれざる平穏
念願の転勤だった。
都心の喧騒を離れた、私鉄沿線の住宅街。駅から徒歩十分、並木道を抜けた先にある築浅のマンション。
「三〇二号室です。日当たりも良く、このお家賃では滅多に出ない出物ですよ」
不動産屋の担当者は、細長い指で鍵を差し出しながら、貼り付いたような微笑みを浮かべていた。
ふと、彼の視線が私の顔から逸れ、肩のあたりを執拗に追いかけた。まるでそこに止まっている不快な虫を観察するかのような、熱を帯びた眼差し。
「……何かありますか?」
私が尋ねると、彼は瞬きもせずに微笑みを深めた。
「いえ。お客様なら、きっとこのお部屋に馴染んでいただける。そう確信しただけです」
その言葉の裏側に、どろりとした粘り気のある何かが混ざっていたことに、当時の私は気づくべくもなかった。
荷解きは初日で終えた。
新しい街、新しい職場。すべてが順調に滑り出した――そう信じたかった。
異変に気づいたのは、働き始めて一週間が過ぎた頃だ。
仕事から帰り、棚の前に立ったとき、喉の奥に小さな棘が刺さったような違和感を覚えた。
並べたはずのガラス細工のコレクションが、数センチだけ、窓の方へ移動している。掃除の時に手が当たったのだろうか。私は無言で、それらを元の位置に戻した。
だが、翌朝。私は自分の目を疑った。
出勤前にぴっちりと閉めたはずの遮光カーテンが、拳一つ分ほど、無造作に開いている。
朝陽が、部屋の隅々に溜まった澱のような埃を、曝き出すように白く照らし出していた。
鍵は閉めたはずだ。窓のサッシも完璧だ。
それなのに、カーテンの隙間は、まるで誰かがそこから外の様子を伺っていたかのように、露骨に開け放たれていた。
その日の夜、さらなる「隙間」が私を待っていた。
帰宅して明かりをつけた瞬間、心臓が跳ねた。
壁際のクローゼットの扉が、数センチだけ開いている。
そこには、まるで中に潜む闇がこちらを覗き見ているような、不気味な黒い縦線が走っていた。
私は、吸い寄せられるようにその隙間に手をかけた。
中には自分のスーツやコートが整然と吊るされているだけだ。
しかし、奥の方から、妙に生臭い、湿った土のような匂いが微かに漂ってきた。
「誰か、部屋に入っているんじゃないか……」
翌朝、洗面台に向かうと、昨夜立てておいたはずの歯ブラシが、排水口の縁まで追い詰められていた。まるで、そこから濁った水の底へ身を投げようとしているかのように。
もはや、単なるズレではなかった。
眠れなくなった。
神経だけが、ずっと剥き出しだった。
夜、部屋の明かりを消すと、視界の奥から闇がせり出してくる。
音が吸い込まれ、重苦しい沈黙が耳を圧迫する。
クローゼットの隙間。カーテンの裏。ベッドの下。
あらゆる死角に、何かが沈殿している。
第二章:背後の体温、鏡の空白
決定的な瞬間は、浴室で訪れた。
顔を洗おうと目を閉じ、シャワーのお湯を頭から被っていた時のことだ。

密閉されたユニットバスの中で、不自然な空気の揺らぎを感じた。
背後に、「誰かが立っている」。
私の背中に触れそうなほどの至近距離で、じっと、私の後頭部を凝視している。
狭い空間に、自分以外の気配が満ちていく。
体温はなかった。古い蔵の奥底から噴き出すような、湿り気を帯びた冷気だけだ。
「……だれ……?」
震える声で問いかけたが、返ってくるのはシャワーが床を叩く単調な音だけ。
意を決して、泡のついた目を見開いた。
鏡を見た瞬間、私は悲鳴すら上げられずに凍りついた。
湯気で曇った鏡の中に、自分の顔があった。
しかし、その表情が、私のものではなかった。
私の意識は恐怖に支配されているのに、鏡の中の男は、口元だけを三日月のように歪めて**「笑っていた」**。
それは愉悦とはまるで違う種類の笑みだった。
気がつくと、私は全裸のまま玄関まで逃げ出し、震えながら蹲(うずくま)っていた。
電子錠の青白い光が、暗い廊下で無機質に点滅している。
この扉の向こう側は、もう私の知っている部屋ではない。
無数の死者が、次の席が空くのを待って、廊下の奥に整列している気がした。
限界だった。
私は、唯一の頼みの綱である、昔から霊感の強い友人・高城(たかしろ)に助けを求めることにした。深夜二時。震える手でスマートフォンを操作し、彼に電話をかける。
数回のコール音の後、繋がった。
「……もしもし。高城か? 実は、最近部屋の様子がおかしくて……」
事情を切り出そうとした、その時。
受話器の向こう側の空気が、一瞬で凍りついたのが分かった。
「……ごめん。今、ちょっと手が離せなくて忙しいんだ。明日、そっちに行くから。もう切るよ」
高城の声は、聞いたこともないほど強張っていた。
「待ってくれ、高城! 本当にまずいんだ、今も後ろに――」
「もう喋るな! ――切るぞ」
一方的に通話が切れた。
信じていた友人にすら見捨てられた。その絶望が、冷たい泥のように私の足元から這い上がってくる。
だが、私は気づいていなかった。
電話を切る直前、自分の口が勝手に動いて、
「いらっしゃい。……待ってるよ」
と、聞いたこともないほど低い声で囁き返していたことに。
第三章:結界の裏側
翌日、高城は約束通りにやってきた。
チャイムが鳴り、私がドアを開けた瞬間、彼は挨拶もせずに数歩後退した。
高城は、私の問いに答えず、ただ私の背後を指差した。
「……お前、さっきから、何をしている?」
「え?」
言われて、自分の手元に目を落とした。
私は無意識に、高城が床に貼ったばかりの和紙を、指先で少しずつ剥がしていた。
和紙の端を掴み、**「部屋の外へ、外へ」**と、執拗にずらしていたのだ。
私は、助けてくれって電話したはずだった。なのに、私の指先は、救いの手を一ミリでも遠くへ追い出そうと躍起になっている。
「私はお前を助けに来たんじゃない」
高城は、崩れ落ちるように膝をついた。
「……これ以上、溢れさせないために、お前をここに『置き』に来たんだよ」
「……何だよ、それ」
私が玄関に向かって歩き出そうとすると、高城は這いずりながら私から逃げた。
「無駄だ。もう、お前は“こっち側”じゃない」
高城は、私の足元を指差した。
私が歩いた後には、煤のような足跡がべったりと付いていた。いや、それは足跡ではない。私の影から伸びた黒い指が、床を掴み、部屋を侵食し、私の輪郭を建物そのものへと溶け込ませていく。
その瞬間、理解してしまった。
小物を外へ動かしていたのは、不快だったからではない。
邪魔だったのだ。私という存在そのものが。

高城は、狂ったように叫びながら玄関を飛び出していった。
私はそれを追おうとはしなかった。
ただ、開け放たれたドアの隙間から、彼が転げるように階段を駆け下りていく音を、心地よく聞いていた。
私はゆっくりと、自分の喉に手を当てた。
そこからは、私自身の声ではない、何重にも重なり合った男たちの笑い声が漏れ出していた。
「……いらっしゃい」
私は、誰もいないリビングに向かって、優しく囁いた。
「次は、誰の番かな」
第四章:再生産の連鎖
あの日、私は確かに「三〇二号室」を出たはずだった。
高城が逃げ出した後、私は不思議なほど晴れやかな気分で引っ越し準備を整えた。あの部屋で感じていた恐怖も、鏡の中の異様な笑顔も、すべては一時的な精神錯乱だったのだと思い込むことにした。
新しい家は、あの不動産屋が「特別に」紹介してくれた、日当たりの良い郊外の戸建てだ。
だが、平穏は長くは続かなかった。
新しい家での生活が始まって一週間。私はまた、小物を動かし始めていた。
玄関のドアに向かって、数ミリずつ。
そして今日、高城から電話がかかってきた。
「……なぁ、お前、本当にもう終わったと思ってるのか?」
受話器から聞こえる高城の声は、掠れ、震えていた。
私は鏡を見ながら答える。鏡の中の私は、かつて三〇二号室で見たあの男と同じ、耳元まで裂けた笑みを浮かべていた。
「何を言ってるんだ。俺は今、最高に幸せだよ」
「……違うんだ。あの不動産屋に聞いたんだ。あそこの告知義務が消えた本当の理由を。あそこは『一度人が住めば浄化される』なんて甘いもんじゃない。……あそこは、“出たつもりにさせられる部屋”なんだ」
友人の声が震える。
「お前が今住んでいるその家……そこが、新しい『三〇二号室』になるんだよ」
その瞬間、背後でカチャリ、と音がした。
閉めたはずのクローゼットの扉が、ゆっくりと開いていく。
中から這い出してきたのは、泥のような影たち。一、二、三……。
かつての住人たち。そして、あの不動産屋。
彼らは皆、私の背後に整列し、私と同じ動作で、ゆっくりと指を玄関の方へと向けた。
「逃げろ! 今すぐそこを……」
高城の叫びを遮るように、私は自分でも驚くほど低く、重なり合った声で呟いた。
「……逃げる? どうして? やっと、**『次』**が決まったのに」
私は無意識に、スマートフォンの画面を操作していた。
発信先は、高城だ。
あの日、私を助けようと部屋に踏み込み、最も深く「部屋の気配」を吸い込んでしまった彼。彼こそが、連中が最も欲しがっていた、最高の熟成を遂げた「種」だった。
「ねえ、今から君の家に行っていいかな? 引越し祝いを持っていくよ。とびきりのやつを」
エピローグ:消えない同居人
私は、自分の指先を信じることができない。
今も、カフェのテーブルでこの原稿を書こうとしながら、左手が勝手に動いている。
無意識のうちに、コーヒーカップを数ミリ、また数ミリと、テーブルの端へ向かって押しやっている。
脳はもう、抵抗することをやめている。
私の後ろには、今も「彼ら」が並んでいる。
クローゼットの闇から、カーテンの隙間から、鏡の向こうから。
彼らは私を急かしている。「早く、次の場所へ」「早く、次の器へ」と。
私は、私を追い出し、そして、誰かの中へ入る。
窓の外では、今日も新しい入居者のトラックが、どこかのマンションの前に停まる。
不動産屋の男が、貼り付いた笑顔で鍵を差し出している。
「お客様なら、きっと馴染んでいただけますよ」
私は、指先に力を込める。
コーヒーカップが、テーブルの端から静かに滑り落ち、砕け散る。
それが、終わりの合図だった。
私は席を立ち、受話器を耳に当てる。
「……もしもし、高城? 今、着いたよ」
扉を開けると、そこにはもう、私自身の輪郭は残っていなかった。
(完)

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