序章
「ねえ、あの廃屋の話、知ってる?」
奈々が声をひそめて言った。
「昔さ、あの家で**男の子が死んだんだって。しかも普通じゃない死に方で……」
直宏が続ける。
「それで村の人たちがヤバいってなって、
本物の陰陽師を呼んだらしい」
「でもさ」
奈々は一瞬、言葉を切った。
「その陰陽師、全部は祓えなかったんだって」
柚奈が眉をひそめる。
「どういうこと?」
「“本体は二階にある”って言って帰っただけ」
そのとき、黙って聞いていた柚希が、無邪気に言う。
「二階なら、まだいるよ」
全員が一斉に柚希を見る。
「だって、さっきから
上から、見てるもん」
第一章 田んぼの中の廃屋
月明かりの下、田んぼ道を歩く。
夜なのに、虫の声が少ない。
柚希は、先頭を歩いていた。
「ねえ、急がなくていいよ」
そう言うと、柚希は振り向いて笑う。
「まだ、だいじょうぶだから」
何が、とは言わない。
廃屋が見えてきた。
相変わらず、田んぼの真ん中にぽつんと立っている。
近づいてみて、奈々が小さく息をのむ。
「……思ってたより、普通だね」
確かにそうだった。
外観は古いが、崩れてはいない。
玄関の柱は太く、屋根もどっしりしている。
——ただひとつ違うのは、
お札。
玄関、窓、勝手口。
出入りできそうな場所すべてに、
古びたお札が貼られている。
「……これ、全部同じ字だ」
直宏が低く言う。
柚奈は頷いた。
どれも、同じ手で書かれたものだ。
鍵は、かかっていなかった。
玄関を押すと、
**ぎぃ……**と音を立てて扉が開く。
中は、拍子抜けするほど普通だった。
広い土間。
磨かれた床板。
古いが、手入れされていた形跡がある。
「……お金持ちだったんだね」
奈々が、ぽつりと言う。
大正時代の、少し裕福な農家。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただし。
柱の一本一本、
天井の梁、
階段の脇。
——お札がある。
貼り方が、明らかに規則的だった。
「一階は……抑えてるだけ、って感じだな」
直宏が言う。
柚奈は階段を見た。
二階へ続く階段だけ、
お札の数が明らかに多い。
「本体は……上」
そのとき。
「なおくん」
柚希が、直宏の服の裾を引いた。
「ごめんね」
直宏が戸惑ったように笑う。
「なにが?」
「なおくん、かわりになっちゃった」
空気が、凍る。
柚奈は即座に柚希の前に立った。
「柚希、それどういう意味?」
柚希は、不思議そうに首を傾げた。
「本当はね、
わたしが引かれるはずだったんだよ」
直宏が、息を呑む。
「でも、なおくんが先に触ったから」
——昨日。
引き出しの三段目に、直宏が手を伸ばしかけた瞬間。
「だから、18までいった」
柚希は、静かに続けた。
「でも、なおくんは19に行けた」
柚奈は、拳を強く握った。
「……だから、終わってない」
柚希は、こくりと頷いた。
「うん。
ここに来なかったら、次が来る」
二階から、
とん、とん、とん
小さな足音がした。
まだ、上がっていないのに。
「……行こう」
柚奈は言った。
「今度は、私が前に出る」
時計を見る。
0時18分。
時間は、もう動き始めている。
0時19分。
——19。
本来なら「越えて生き残る」数字のはずなのに、
今はその意味が、ひどく薄っぺらく感じられた。
「……おかしい」
柚奈の声が、思ったより強く響いた。
「呪いは解除された。
直宏は助かった。
なのに、終わってないってどういうこと?」
階段の上から、返事はない。
ただ、二階の闇が、じっとこちらを見下ろしている気配だけがある。
直宏が、無意識に自分の腕を掴んだ。
「俺……さ」
声が、少しだけ裏返った。
「助かったって聞いた時、
正直、もう全部終わったって思った」
奈々が小さく頷く。
「普通、そうだよ……」
直宏は続けた。
「なのにさ、ここ来てから、
胸の奥が……ずっとざわざわしてる」
「まだ、引っ張られてる感じがする」
柚奈は唇を噛んだ。
——18種類の呪い。
——一度に一人。
——18日間、不幸が続く。
「……次、があるってこと?」
柚奈が柚希を見る。
柚希は、階段のほうを見たまま、小さく言った。
「まだ、数が揃ってない」
「なにが?」
「18」
その瞬間、
ぎし……
と、階段の上で床が軋んだ。
直宏が一歩、後ずさる。
「なあ……今、上にいるよな?」
「誰か、立ったよな?」
柚奈は答えられなかった。
頭の中では、母の言葉が反響している。
——「鎮めているだけ」
——「消えてはいない」
「……時間がない」
柚奈は、ほとんど自分に言い聞かせるように言った。
「18時までに、じゃない。
18に触れた瞬間から、もう始まってる」
直宏が、歯を食いしばる。
「俺のせいだ……」
「違う!」
柚奈は即座に否定した。
声が、少し震えていた。
「直宏が触らなくても、
誰かが引かれてた」
——たぶん、それは柚希だった。
その事実が、
喉の奥に刺さって、言葉にならない。
奈々が、かすれた声で言う。
「ねえ……
もし、呪いがまた誰かに移るとしたら……」
誰も続きが言えなかった。
柚奈は、階段を睨みつける。
「……上に行くしかない」
そう言った瞬間。
直宏の背後で、
ぴちゃり
と、何かが落ちる音がした。
振り向くと、
床に、黒い染みが一つ、増えている。
「……血?」
直宏が、自分の手を見る。
——何もない。
「違う」
柚希が言った。
「18のひとつ」
柚奈の心臓が、強く跳ねた。
「もう……始まってる?」
柚希は、ゆっくり頷いた。
「うん」
「だから、急がないと」
階段の上から、
今度ははっきりと、
とん、とん、とん
——子どもの足音が、
降りてくる方向で、鳴った。
柚奈は、拳を握りしめる。
「……行くよ」
「迷ってる時間はない」
直宏は、一瞬だけ目を閉じ、
それから、強く頷いた。
「……今度は、逃げない」
時計は、静かに進んでいた。
0時24分。
——18に、近づいていく。
階段の前で、誰も動けなくなった。
二階からの足音は、いつの間にか止んでいる。
いるはずなのに、気配だけが消えていた。
柚奈は、もう一度周囲を見渡した。
お札は、剥がれていない。
引き出しも、誰も触っていない。
青い蝋燭も、まだ火はついていない。
——何も、変わっていない。
「……だめだ」
柚奈が、低く言った。
「今、上に行っても、
やっていいことと、だめなことの区別がつかない」
直宏が、息を詰めた。
「でも、このまま帰ったら……」
「帰る」
柚奈は、はっきりと言い切った。
「ここで何か壊したら、
直宏が助かった意味まで、壊すことになる」
奈々が、ほっとしたように、でも泣きそうな声で言う。
「……うん。
私、ここにいると、頭がおかしくなりそう」
柚希だけが、不満そうに口を尖らせた。
「まだ、全部見てないのに」
「だから」
柚奈は、しゃがんで柚希と目を合わせた。
「見ちゃいけないんだよ」
柚希は少し考えてから、首を縦に振った。
「……じゃあ、またね、って言えばいい?」
その言葉に、背中がぞっとした。
「言わなくていい」
柚奈は、強く言った。
「絶対に、言わない」
玄関を出ると、夜の空気が冷たかった。
廃屋は、相変わらず普通の家のままだ。
誰も追ってこない。
何も起きていない。
それが、一番怖かった。
田んぼ道を戻りながら、
直宏がぽつりと呟く。
「……俺さ」
「助かったのに、
助かった気がしない」
柚奈は、答えられなかった。
時計を見る。
0時36分。
18には、まだ遠い。
でも、近づいてはいないわけでもない。
背後で、風が吹いた。
稲が一斉に揺れて、
その音が、まるで笑い声のように聞こえた。
柚希が、振り向かずに言う。
「ねえ」
「今日は、なにもできなかったね」
「でもね」
一瞬、間があってから。
「なにも起きなかった日は、
向こうが準備してる日なんだよ」
柚奈の喉が、ひくりと鳴った。
誰も、振り向かなかった。
廃屋は、闇の中で、
ただそこに立っている。
——いつでも続きを始められる、という顔で。
翌日。
朝の光は、やけに白かった。
柚奈は目を覚ました瞬間、
まず——時間を確認した。
7時02分。
18ではない。
それだけで、少しだけ息ができた。
居間から、母の物音が聞こえる。
いつもと同じ朝。
テレビの音、湯気の立つやかん。
それなのに、柚奈の胸の奥には、
昨夜の廃屋が、そのまま残っていた。
柚奈は、制服に着替えず、
そのまま居間へ行った。
「……お母さん」
母は振り向いた。
一瞬で、異変に気づいた顔になる。
「どうしたの。
その顔」
柚奈は、深呼吸してから言った。
「昨日の夜……
私たち、廃屋に行った」
母の手が、止まった。
柚奈は、全部話した。
0時に抜け出したこと。
何もできなかったこと。
直宏が呪いにかかったこと。
柚希が“本当は犠牲になるはずだった”と言ったこと。
話している間、
母は一度も遮らなかった。
最後まで聞いてから、
静かに、こう言った。
「……まだ、触ってる」
柚奈の背中が冷たくなる。
「助かったはずなのに?」
「“助かった”のは、結果だけ」
母は続けた。
「原因には、触ったまま」
そして、はっきり言った。
「今日は、学校は休みなさい」
連絡
母はすぐに電話をかけ始めた。
まず、直宏の母。
次に、奈々の母。
柚奈は、聞こえてくる断片的な言葉だけで、
話の重さがわかった。
「……はい」
「ええ、念のためじゃありません」
「“念のため”で済むなら、行きません」
通話を切るたび、
母の表情が、少しずつ昔に戻っていく。
——柚奈が知らない、
村を知っている顔。
「準備して」
母が言った。
「これから、お寺に行く」
「お寺?」
「今は、あそこが窓口」
母はそう言って、
古い鍵の束を取り出した。
その中に、
見たことのない札付きの鍵があった。
「担当の陰陽師は、
もう“廃屋”の話を知ってる」
柚奈は、思わず聞いた。
「……今も、毎年?」
母は一瞬、言葉を選んだ。
「……ええ」
その沈黙が、
何よりの答えだった。
合流
車で、直宏と奈々を迎えに行く。
直宏は、制服を着ていなかった。
目の下に、薄く影がある。
「……ごめん」
会った瞬間、そう言った。
「私が、ちゃんと止められなかった」
柚奈は首を振った。
「もう、その話はいい」
奈々は、後部座席で、
小さく手を握りしめていた。
「……学校、連絡入れました」
奈々の母が言う。
「理由は、体調不良で」
誰も、異論はなかった。
お寺へ
山の中腹にある、古い寺。
観光地でもなく、
派手な看板もない。
それなのに、
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
柚奈は、無意識に時計を見る。
8時41分。
18には、まだ遠い。
「……ここは、6の場所」
柚希が、小さく言った。
母が、ぴたりと足を止めた。
「……誰にも、教えてないのに」
本堂の奥から、
草履の音が聞こえてくる。
現れたのは、
年齢のわからない男だった。
白でも黒でもない服。
目だけが、やけに澄んでいる。
「——久しぶりですね」
男は、柚奈の母を見て言った。
「そして……
今年は、子どもが触りましたね」
直宏が、息を呑む。
男は、全員を見渡し、静かに続けた。
「大丈夫です」
「間に合っています。まだ、18にはなっていない」
その言葉で、
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
——でも。
「ただし」
男は、視線を柚希に向けた。
「次は、
こちらが選ばれます」
柚奈の心臓が、強く鳴った。
本堂の中は、ひんやりとしていた。
畳の匂いと、かすかな線香の煙。
全員が正座すると、
陰陽師は、ゆっくりと口を開いた。
「……まず、知っておいてもらいます」
声は低く、淡々としている。
「あの家の呪いは、一種類ではありません」
柚奈は、思わず背筋を伸ばした。
「全部で、十八」
その数字が出た瞬間、
直宏の肩が、わずかに跳ねた。
「十八の不幸は、同時には起きません」
陰陽師は続ける。
「必ず一人に、ひとつずつ」
「理由は簡単です。
あれは“群れる”怨霊ではない。
一人を選び、削り切るものです」
奈々が、震える声で聞いた。
「……不幸って、どんな……?」
陰陽師は、すぐには答えなかった。
代わりに、こう言った。
「——名前を持つ不幸です」
柚奈の母が、息を呑む。
「たとえば」
陰陽師は、指を一本立てた。
「道違い。
普段なら間違えない道を、何度も誤る」
二本目。
「手離れ。
大切な物ほど、手から落ちる。
壊れる。戻らない」
三本目。
「聞き違い。
警告を、冗談として聞いてしまう」
一本ずつ、
指が増えるたびに、
空気が重くなっていく。
「遅刻」
「転び」
「影踏み」
「水濡れ」
——どれも、
「死」ではない。
けれど、確実に生を削るもの。
直宏が、唇を噛みしめる。
「……それが、18日間?」
「正確には」
陰陽師は訂正した。
「18日間続く」
柚奈が顔を上げた。
「ひとつでも、18時を越えて放置されれば——
死に繋がる不幸に変わります」
その言葉に、
誰も息ができなくなった。
「だから、翌日の18時までに手を打つ」
「あなたのお母さんが呼んだ判断は、正しい」
柚奈は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
だが、陰陽師はそこで終わらせなかった。
「……ただし」
視線が、直宏に向く。
「あなたが受けた不幸は、
途中で止めました」
「解除は、成功しています」
直宏が、ほっと息を吐く。
——だが。
「しかし」
陰陽師は、静かに言った。
「“順番”は、消えていません」
柚奈の心臓が、嫌な音を立てた。
「順番……?」
「十八の不幸は、
回るのです」
「一人が免れれば、
次を探す」
そして、
ゆっくりと、柚希を見る。
「今回、あなたが“触れた”ことで、
本来、次に来るはずだったものが——
一つ、前にずれました」
柚希は、きょとんとした顔で言う。
「……じゃあ、まだ?」
「ええ」
陰陽師は頷いた。
「終わってはいません」
沈黙が落ちる。
その中で、
陰陽師は最後に、こう告げた。
「これから行うお祓いは、
“消す”ためのものではありません」
「次の18を、正しい位置に戻すためのものです」
柚奈は、強く拳を握った。
——逃げられない。
——でも、立ち向かう順番は、選べる。
陰陽師が、ゆっくりと立ち上がる。
「では、始めましょう」
「——18に、触れないための準備を」
陰陽師は、立ち上がりかけた動きを止め、
もう一度、全員を見渡した。
「……もう一つ、話しておくことがあります」
その声色が、わずかに低くなる。
「十八の不幸は、同じ重さではありません」
柚奈は、嫌な予感がして背筋を正した。
「軽いものから、重いものまで——
段階があります」
直宏が、恐る恐る聞いた。
「……どれくらい?」
陰陽師は、畳の上に手を置いた。
「小事」
「中事」
「大事」
「そして——」
一拍置く。
「致命」
奈々が、思わず声を漏らす。
「……し、死ぬ……?」
「可能性が、ある」
陰陽師は否定しなかった。
「それが“致命”です」
空気が、重く沈んだ。
「小事は、誰にでも起きそうなことです」
陰陽師は続ける。
「転ぶ。
物をなくす。
連絡が行き違う」
「ですが、これを軽く見てはいけない」
柚奈は、思わず前のめりになる。
「……どうして?」
「小事は、次の不幸を呼ぶ準備だからです」
陰陽師は、静かに言った。
「小さなつまずきで、判断が遅れる」
「小さな失敗で、時間を失う」
「それが積み重なって——
中事になる」
直宏の指先が、畳に食い込む。
「中事は、怪我や病気」
「取り返しのつかない失敗」
「人間関係の決定的な亀裂」
「ここで、18時を越えると——
大事に変わる」
柚奈の母が、低く息を吸った。
「大事は?」
母が問う。
「事故」
「重い後遺症」
「命に関わる選択を、間違える」
陰陽師は、はっきりと言った。
「そして、致命は」
言葉を、選ばなかった。
「——“助からない”」
誰も、動けなかった。
柚希だけが、静かに言う。
「……18になると?」
陰陽師は、柚希を見て、頷いた。
「そう。
18時を越えた不幸は、すべて一段階上がる」
「小事でも、越えれば中事」
「中事は大事に」
「大事は——致命になる」
柚奈の喉が、きゅっと鳴る。
「……直宏は?」
陰陽師は、少しだけ表情を和らげた。
「あなたの場合は、小事でした」
直宏が、思わず息を吐く。
「“手離れ”と“遅刻”」
「物を落とし、
間に合うはずの時間に、間に合わなかった」
柚奈は、昨夜のことを思い出す。
黒い染み。
あれが、小事。
「ただし」
陰陽師は、言葉を切った。
「小事で済んだのは、18時前に手を打ったから」
「一歩遅ければ、
次は中事だった」
沈黙が落ちる。
その中で、陰陽師は、決定的なことを告げた。
「重要なのは、ここからです」
「十八の不幸は、
どこから始まるかを選べません」
「ですが——」
一瞬、間を置いて。
「どこで止めるかは、選べる」
柚奈は、拳を強く握った。
「……それが、お祓い?」
「ええ」
陰陽師は、ゆっくりと立ち上がった。
「これから行うのは、
不幸を“元の小事に押し戻す”ための儀式」
「消すことはできません」
「ですが、致命に至らせないことはできる」
最後に、静かに言った。
「——それが、この村が
18と共存してきたやり方です」
本堂の奥で、
風が、すっと通り抜けた。
まるで、
誰かが話を聞いていたかのように。
陰陽師は、祭壇の前に立つ。
「では、始めましょう」
「次の18が来る前に」

























※コメントは承認制のため反映まで時間がかかる場合があります。