第二章 お祓い
本堂の奥で、儀式は行われた。
陰陽師は一人ずつ、名前を呼ぶ。
最初は、直宏。
次に、奈々。
柚希。
そして、柚奈。
額に符をかざし、
低い声で祝詞を唱えるたび、
空気がわずかに揺れた。
柚奈は、見えない圧に押されるような感覚を覚える。
——何かが、剥がされていく。
最後に、陰陽師は全員を見渡した。
「これで、“個人に付いた不幸”は祓いました」
一瞬、安堵が広がる。
だが、陰陽師は首を振った。
「……ただし」
その一言で、空気が凍る。
「本体には、まだ触れていない」
柚奈の母が、覚悟を決めたように言う。
「——廃屋ですね」
陰陽師は、はっきりと頷いた。
夕方、廃屋の前に立つ。
相変わらず、田んぼの真ん中。
風に揺れる稲の音だけが、やけに大きい。
「意外と……普通だね」
直宏が、小さく呟く。
大正時代の少し裕福な家屋。
歪んではいるが、崩れてはいない。
ただ——
ドア、窓、縁側。
至るところに貼られたお札が、
「ここが異常だ」と主張している。
二階へ上がる階段の前で、
陰陽師は立ち止まった。
「これから行うのは、
鎮めの再点火です」
懐から、小さな包みを取り出す。
中には、青い蝋燭。
「18本」
「北を除く、四隅」
「18時18分に、火を灯す」
奈々が、息を呑む。
「……18を、重ねるんですか?」
「ええ」
陰陽師は答える。
「重ねなければ、鎮まりません」
二階の部屋に入る。
壁一面、天井、床。
びっしりと貼られたお札。
部屋の四隅には、
三段の引き出しが四つ。
——その三段目。
誰も見ていないのに、
そこに“ある”と分かる。
「蝋燭には、順番があります」
陰陽師は、床に図を描く。
「一番目を間違えた時点で、やり直しはできません」
柚奈の喉が、ひくりと鳴る。
「……順番は?」
「毎年、変わります」
直宏が、目を見開く。
「毎年……?」
「ええ。
怨霊は、“同じ形で鎮まること”を嫌う」
「だから、順番は占いで決める」
陰陽師は、既に出してあった占盤を示す。
「今年は——」
一瞬、言葉を切る。
「西、南東、南、西北……」
淡々と、18の順を告げていく。
柚希が、小さく聞く。
「……まちがえたら?」
陰陽師は、柚希を見下ろした。
「その場にいる誰かが、“次”になります」
柚奈は、反射的に柚希の前に立った。
時計を見る。
17時58分。
「火を持つのは——」
陰陽師が言う。
「最初は、柚奈」
心臓が、大きく鳴った。
「次が、直宏」
「奈々」
「最後に、柚希」
——守る順番。
——試される順番。
針が、動く。
18時17分。
部屋の温度が、下がった。
お札が、かすかに鳴る。
18時18分。
陰陽師が、低く告げる。
「……始めなさい」
柚奈は、
震える手で、
青い蝋燭に火を近づけた。
その瞬間——
引き出しの奥で、
何かが、息をした。
青い蝋燭は、一本ずつ灯っていった。
西。
南東。
南。
西北。
陰陽師が告げた順番通りに。
火は揺れない。
音もしない。
ただ、灯るたびに——
部屋の重さが、わずかに軽くなっていく。
十六本目。
奈々の手が、少し震ぐ。
「……まだ、大丈夫」
陰陽師の声は低いが、確かだった。
十七本目。
柚希が、息を止めて火を近づける。
一瞬、蝋燭の芯が黒く沈み、
「消えるか」と思った。
——だが。
青い炎が、静かに立ち上がった。
誰も、声を出さない。
そして。
十八本目。
柚奈の手の中で、
最後の蝋燭に火が移る。
その瞬間——
部屋の四隅に貼られたお札が、
一斉に、すっと静まった。
風が止む。
畳のきしみも、消える。
時計を見る。
18時18分
秒針が、18を越えた。
——何も起きない。
それが、成功の合図だった。
陰陽師は、ゆっくりと一礼する。
「……終わりました」
柚奈は、膝の力が抜けるのを感じた。
直宏が、かすれた声で言う。
「……助かった、んですよね」
「ええ」
陰陽師は、はっきり頷いた。
「今年の18は、鎮まりました」
四隅の引き出しに、
静寂が戻る。
——そこに“あった”気配が、
遠くへ退いたのが、はっきり分かった。
階段を降りると、
夕暮れの田んぼが広がっていた。
赤く染まる空。
虫の声。
あまりにも、普通。
廃屋は、
ただの古い家に見えた。
帰り道、
柚希が、ぽつりと言う。
「……もう、なにもいないの?」
陰陽師は、少し考えてから答えた。
「“いない”のではありません」
「眠っているだけです」
柚奈は、足を止めた。
「……じゃあ、また?」
陰陽師は、夕空を見上げる。
「来年、8月25日の午前3時24分」
「また、同じことをします」
「誰にも知られないまま」
柚奈の母が、静かに言う。
「それが、この村のやり方……」
陰陽師は、最後にこう告げた。
「だから、忘れてはいけません」
「18は、不吉な数字であり——
同時に、鎮めるための数字でもある」
廃屋を振り返る。
窓に、
何も映っていない。
……はずなのに。
柚奈は一瞬だけ、
二階の奥で、誰かが“目を閉じた”気がした。
それだけ。
それ以上は、何も起きない。
——今年は。

























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